一休和尚の遺言
皆さま、こんにちは。桜の季節が驚くほど早く過ぎ去って、新緑の季節がやってきました。暑いと思う日中や急に冷える雨天に身体が追いつきませんが、健康一番で穏やかな季節を楽しみたいですね。
さて、皆さんは「寓話(ぐうわ)」と聞いて、何を思い出しますか? 私はイソップ物語で、中でもすぐに思い浮かぶのは「すっぱい葡萄」です。木の上にある葡萄を取ることができないきつねが、その葡萄を「あんなの酸っぱくて美味しくないさ!」というお話です。自分の都合で「事実」を解釈して、本当は食べたいのに食べられない自分を納得させる話ですが、私も仕事や私生活でよくやってしまう自分への嘘です。
寓話は、人間の生活に馴染みの深いできごとを比喩によって見せ、私たちを諭すことを意図した物語を言いますが、戸田智弘さんの「座右の寓話」という本の中に、「一休和尚の遺言」という一篇がありました。私の心に引っかかった内容をご紹介させてください。
一休和尚は臨終のときに、「仏教が滅びるか、大徳寺が潰れるかというような一大事が生じたら、この箱を開けなさい」と遺言を述べて、一つの箱を弟子に手渡したそうです。それから長い歳月が経過し、大徳寺の存続に関わる重大な問題が起きました。どうにもならなくなって、和尚の遺言を思い出し、寺僧全員が集まって厳かに箱を開けたのですが、中に入っていたのは一枚の紙。 そこに書かれていたのは次のような一文でした。
「なるようになる。 心配するな」
著者の戸田さんは、最後に出てくる 「なるようになる。 心配するな」 という言葉を、「どうせ、なるようにしかならないんだから、心配してもしょうがない」というようなニュアンスとは明らかに違うと説いています。
結果は決まっているのだから、あれこれ心配してもしょうがないというメッセージではなく、この一文の前には前提として、「なすことをなせ」というメッセージが隠れていていると言うのです。その内容を補うとしたら、次のような一文なります。
「なすことをなせ。 あとはなるようになる。 だから、心配するな」
「なす」 と「なる」は対になる言葉で、「なす」の方は、主体者の意志による行為・行動を表していて、「なる」は自然的な出来事や結果を表しているそうです。前者は、「変えられること」「力の及ぶこと」「コントロールできること」になりますし、後者は「変えられないこと」「力の及ばないこと」「コントロールできないこと」で一対というわけです。言い方を代えると、前者は自分の責任の及ぶことですし、後者の責任は私たちにありません。
一大事を前にして、なすべきこともせずに「なるようになる」と開き直っても良いことはありません。過ぎたことを思い出して悔やんでみたり、 どうなるか分からない未来のことを思い煩ってみても仕方がありません。結果がどうなるかはわかりませんが、私たちにできる(責任のある)「コントロールできること」を、みんなの知恵と汗を集めて全力を尽くすことが一大事を前にした「なすべきこと」です。あとは「なるようになる」。人事は尽くしたのですから天命を待つしかありません。
この話を読んで、私は「するべきこともしないで、行く先を心配するようなことがあるなぁ」と一休さんの遺言とは正反対なあれこれを反省しました。一休さんの遺言が伝えようとしたのも、「仏教が滅びるか、大徳寺が潰れるかというようなことがないように(この箱を開ける必要のないように)、しっかりと修行に励みなさいよ」だったのかも知れません。
プラスデコ代表 原田 学