社長の思いつ記 2018.5

 楽しみにしていた桜の季節は、急な気温上昇であっという間に満開、直後の雨と突風であっけなく過ぎてしまいました。続いてお楽しみGW、皆様はどんな休日をすごされましたでしょうか。当社が今年60周年なのはどこかで書いたかも知れません。思わぬ人から昔話を聞かされ、それが私の知らない話だったりすると、得したような、はたまた知らないことの多さに残念なような不思議な気持ちになります。私は二代目なので、先代から言われてこそ至った心境や、守り抜きたい思いなどが確かにあります。創業者である先代原田昭廣についてちょっとお話させてください。
 彼は昭和8年、駒ヶ根市赤穂の石屋の次男として生まれました。少年時代は太平洋戦争真っ只中、終戦のどさくさと貧しさから家の仕事を手伝うことを余儀されなくされて、いつしか学校に行かなくなり、土木工事の請負や菓子職人などの職業を転々としながら20代初めまでを過ごしました。
 国民学校時代から絵を書くのが好きだった彼は、土木工事で手にしたお金で画材を買い揃え、空いた時間があれば制作を最大の楽しみしていました。塗料との出会いはそんな楽しみに導かれてます。「絵の具を混ぜるように色を作る仕事があるけどやってみないか」そう持ちかけられたのが、この世界に入るきかっけでした。しかし資金はゼロのスタートでしたから在庫を持って店頭で売る当時の塗料販売の形は取れません。
 幸いだったのは時代が高度成長に向かってまっしぐら。南信地域にもカメラメーカーをはじめ精密機器を中心とした優秀な企業が次々と産声をあげていました。産業向けに開発される様々な特殊塗料の分野でなら、注文を受けてから仕入れるスタイルで商売が始められました。当社が工業系塗料商社として創業したのは、そんな資金も無さの所以でしたが、これこそ幸運。工業塗料分野は塗装前の脱脂や化成皮膜の処理など、付帯する化学薬品や化成品を取り扱うには絶好のポジションでした。現在の当社が広く産業の化学品を現場の実務家として提供することができるのは、こんな系譜によっているのです。
 仕入の苦労もよく聞かされた話の一つです。信用がなかった先代は注文を受けると材料に調達しに東京に買い出しに行かねばなりません。現金を握って夜行列車で上京し、問屋が開くまでの時間は列車内で寒さをしのぎました。帰りには両手に塗料缶、背中に副資材の詰まった大きなリュックを背負って戻るような取引を2年ほど続けたようです。「原田さん、もう来なくていいよ。商品は送ってあげる。掛け売りにしよう。」そう言われたときの嬉しさは何ものにも代えがたかったのでしょう。両親ともこの話になると有り難さに口をそろえたものでした。“仕入れ先様のご支援あってこそ商売できる”の思いは、当社が“仕入様先”とお呼びする慣わし、「買うのでなく、売らせて頂く」を信条にしている点に今も生きています。私が入社した際に、先代から「仕入先様は株主様と同じ。私たちに期待し、かけていてくれる」それが最初の教えでもありました。
 また、サラリーマンだった私は父から思いがけない質問をされたことがあります。「お前の会社なら、俺はどの位の職位だと思う?部長か?課長位か?」この質問には困りました。そもそも会社での父の働きや指揮ぶりなどよく知らないし、父親がどんな人間なのかまでは子供にはよくわかっていないものです。私は、「分らないし、比べようもない」と答えるしかなかったのですが、その時に父のバランス感や誰にでもモノを聞ける素直さをはじめて知ったような気もしています。自分の実力を外部の物差しで図ろうとする姿勢は、紛れもなく尊敬できる姿でした。