言葉について思うこと
あけましておめでとうございます。旧年中は格別のご愛顧を賜り誠にありがとうございました。
ゆく年を見送った分だけ、残りの人生が減っていくようにも思えますが、その代わりに重ねてきたものや育ててきたものを大切にしたいと思うことも増えました。この一年も過ごした分だけ甲斐のある、幸せな時間を積み重ねたいものですね。
さて、今日は言葉について思うことです。人や場面によって言葉は意味合いも使い方もずいぶん変わるものだなぁと思います。例えば「忖度」という言葉。森友学園・加計学園問題の報道が盛んになる中で2017年には流行語大賞も受賞していますが、ここでの使われ方は、「相手の顔色を伺ったり、ごまをする」といったようなネガティブな意味として用いられました。本来の意味は、「相手の気持ちを推測すること」なので、日本的で思いやりを示す言葉としてポジティブな用例がもっとあっても良いように思いますが、何とも不幸な言葉に追いやられてしまった気がします。もう一つ挙げるとすれば「えこひいき」です。先日、県内のある講演会で講師を紹介する司会者が、「(その講師は)昔から長野地区にえこひいきをしてくださっていた」と述べました。続けて、「商売をする上で、ご贔屓に預かるということほどありがたいことはない」と。
私はこの「えこひいき」という言葉には思い入れがあります。子供ながらに、「えこひいき」は悪いこと、不平等を表す言葉と思っていましたが、おなじみの黄色いチラシに「地元えこひいき宣言」という見出しを提案されたときにこの言葉を調べ、私の中の意味合いは一変しました。「依怙(えこ)」は仏教語で、「あるものを頼りにする」「頼りにして依りかかる」という意味です。仏さまが、頼ってくる人々に目をかけて助けることを意味しているのだそうで、私たちは自分を頼りにしてくれる人を可愛がるようになるし、ついひいきをするのは人情だと思いました。私は大いに納得して、チラシに「地元えこひいき宣言」のタイトルを使ったのですが、実を言うと、チラシが折り込まれた日に、それを目にした方から会社に「差別用語を使うとは何事か!」とお叱りの電話がありました。丁重にお詫びはしたものの、私は媚びるのではなく、可愛がられるような人でなくては相手にご贔屓には預かれないと思っていますし、この点には叱ってくださった方も言葉の持つ印象は別にしてご理解をいただけるのではないでしょうか。そうでないと、例えばどんなお店を利用するにも、特定のお気に入りを持たず、平等に順番に利用する以外、えこひいきをすることになってしまうと思います。もう一つ、「えこひいき」について援軍を得るとしたら、シドニー五輪女子マラソンで金メダリストになった高橋尚子選手が著書* の中でこう書いています。
あるとき、恩師の小出義雄監督のもとに「監督はみんなを平等に指導してくれない」と訴えに行った選手がいて、監督はそこで言ったそうです。
「えこひいき? そんなの当たり前だよ。みんなもう学生じゃないんだからね」
「どんな職場でも、社会人というのは自分のことを見てもらえるように努力をするものだよ。努力しなければ、見てはもらえない。こっちが指導したいなと思うような選手になりなさい。鐘だってそうだ。打って響かなければ、もう鳴らしたくなくなってしまう。打ったら響く、そういう人にならなくてはいけないよ。そうでなかったら、俺だってえこひいきするよ。社会人なんだから」
小出監督のその言葉は、私にとって本当に革命的な言葉でした。*『笑顔で生きる魔法の言葉(角川書店)』
人間社会に生きるとき、「えこひいき」は当たり前とも言える人の心の働きだと思います。選手なら監督に、商売ならお客様に、えこひいきされる人でありたい。もちろん、媚びたりごまをするのでなく、ひたむきに努力して可愛がられる人になってです。私もわが社も、少しでもその道を歩むように努める一年にしようと思います。
皆様の2026年が、ご健康で実りの多い、かけがえのない年となりますように…
プラスデコ代表 原田 学