社長の思いつ記 2018.7

気象庁は6月29日、関東甲信地方に梅雨明けを発表しました。異常気象を心配しながらも、早すぎる梅雨明けに喜びを感じてしまう私。皆さんはこの夏をどう過ごされる予定でしょうか。
 さて、前号に続き、創業者 原田昭廣についてお話させて下さい。
 私は当時の社長に「どうして社長になったのか」をたずねてたことがあります。彼の答えはこうでした。「鶏口牛後の言葉がある。私はサラリーマンにはとてもなれない。実務家として業務を積み重ねる根気が足りないしね。」1980年代までの当社の運営ポリシーは、“社員は企業の歯車でなく、一人一人の特徴を生かして商う個人商店を束ねる”でした。それは、自由でなければいい仕事はできないし、喜びもないと考えた彼の信念に通じてました。古い会社案内の最初のページは、“タイムレコーダーのない会社”のキャッチコピーで始まります。今なら「ブラック企業か!」と疑われそうですが、時間に縛られない自由な働きぶりを発揮する(してくれ)、のメッセージだったことは、社内のキャリアに関係なく、現場サイドで開発から仕入れまで自由にハンドリングできた当時を振り返れば明らかです。
  また、「災い転じて福 人間万事 塞翁が馬」も昭廣の確かな思いでした。1983年の12月、出張中の父は宿泊先で警察に逮捕されました。容疑は暴力団へのシンナー横流し。NHKの夜7時のニュースで報じられたと言えば、ことの大きさが分かってもらえるかもしれません。
 容疑は晴れて釈放されたものの、無実の報道はほとんどされないままで、失った信頼を取り戻すことは容易ではありません。もう取引はできないとの申し出が後を立たず、営業の前線ではライバルがここぞとばかりに自社を売り込んで取引の乗り換えを進める大混乱となりました。会社が潰れてしまう...そんな危機的な環境だからこそ、組織にも個人にもこのとき多くのエピソードが生まれています。私は大学受験を控えて家を出ていたので、容疑が晴れたと聞いて安心したこと以外、会社がどんな状況かまでは知るはずもありません。
 しかし、これを契機に会社は新たな仕入先様を開拓、県内を5拠点化して売上を急伸させ、社名もナイス・コミュニケーション・カンパニーへと変えていきます。新たな借金は嫌だと、それまで頑なに事業拡張を拒んできた副社長の母がこうした投資を許したのは、災いをはねのけて頑張る姿を示すためだったのかも知れません。
 私が忘れていたこの事件を思い起こすのは、私の祝言の前日に行った親戚との会食での父の挨拶でした。
「7年前の今日、私は逮捕されました。その筋には親戚のみなさんにも多くの迷惑をかけてしまいました。あれから7年後の本日、我が家にとって幸せな長男の結婚を報告できます。あの頃は悔しくて悔しくて、ただただ信用回復のために仕事に打ち込むほかありませんでした。あの悪夢の日が最高に幸せな日になりました。感無量であります。」私が初めて見る父の涙が頬を流れました。母も姉も、おそらく親戚の多くが、この挨拶に「あっ」と記憶の糸が通じ、それぞれの当時に引き戻されたはずです。和やかに始まったはずの祝宴のムードは一転しましたが、決して暗たんたるそれとは異なり、両親に対する「よく頑張った」の労いや「新郎新婦頑張れ」のエールに満ちた眼差しや頷き、涙で満たされていたことを思い出します。
 そして、今、「ピンチこそチャンス」を通じて証明してきた先代や先輩たちの歩みを誇りに思い、少しでも近づきたいと思う。ピンチはチャンス。これは我が社の生き様そのものであり、守り続けなくてはならない信条とするところなのです。(更に次号へ)

                         (プラスデコ代表:原田 学)