人工知能AI
皆さま、こんにちは。新緑が私たちに元気をくれる季節になりましたが、いかがお過ごしですか。今では使われる場面が少なくなりましたが、当社のシンボルカラーは緑のグラデーションで、創業者の父は会社のありたい姿として、新緑から深い緑への変化に「成長」と、木から森へをイメージする「助け合い」を示してくれました。 そんな会社になったかと言えば、まだまだ道半ばというほかありませんが、せめてこの季節は先輩方の土と汗にまみれた新緑の時代に思いを馳せて働きたいと思います。
さて、「シンギュラリティ」という言葉を聞いたことはありますか?専門的なことは私もよくわかりませんが、 人工知能(AI)が人間の知能を超えるときを指すのだそうです。当社ではAIによる業務指導の仕組みを試作中ですし、社員さんの仕事にもAIによって画像や文書を修正するようなツールが入り込んでいて、指摘した内容が生成AIが作ったものだと知ることがあります。私自身も音声の文字起こしや文書翻訳にはAI搭載のアプリを使って便利さを実感していますが、部分的にはすでに人間よりもはるかに賢い知能を発揮していることは疑いようもないと思っています。ことさら人間の優位性を主張するような意見もありますが、どちらが優れているかの議論よりも、私にはAIによって代替されるうちに失う私たちの能力の方が気になります。
先日、社員さんに私の意図を伝えて文書の作成を頼みましたが、その社員さんは生成AIに指示して文案を作り、それを手直しして文書を完成してくれました。確かにこれなら早い!と思いましたが、一方で意図が伝わるように作文を繰り返す以外に、社員さんの文書作成の力を高めることはないとも思いました。科学技術が進歩して私たちは昔よりも自由を謳歌しているような気になっていますが、実際には昔の人より不自由な私たちを拡張しているだけなのかもしれません。こう言う私が歳をとったということなのだと思わないわけではないですが、 例えば、会社を辞めるという自分の決定すら、それを代行する会社にお金を払って伝えてもらうという人の不自由さは皆さんも知るところだと思います。
中国には次のような寓話があります。孔子の弟子である子貢が南方の楚に旅行して、晋に帰る途中、漢水の南を通りかかったときのこと、一人の老人が野菜畑を耕作しようとしていました。井戸の中に入り、瓶を抱えて外に出てきては水をやっているのですが、苦労の大きい割に仕事ははかどっていなように見えて、子貢は声をかけます。「一日に百もの畝に水をまくことができる仕掛道具をご存じですか。労力はとても少なくすみ効果は大きいので使ってはどうでしょうか」子貢は、そう言って はねつるべ* の説明をしたのですが、老人は笑顔を浮かべて答えます。「私はこう聞いています。便利な道具があると、ずるい心が生まれる。ずるい心が胸の中にあると、純白の美徳が失われ、それが失われたら気持ちが乱れて人としての支えがなくなってしまう。私は、はねつるべを知らないわけではありませんが、使わないのです」 *仕掛けによって井戸水をくみ上げる機械
仕事において生産性を上げることは誰にとっても良いことのように思いますが、手間ひまのかかることが面倒くさくなってしまう心は、生産性や便利さの副作用として必ず生まれてしまう気がします。だとしたら、手間ひまのかかること、一見すると自分の得に思えないことを仕事の中に残しておくことは必要なことかもしれません。それが私たちらしさを表したり、関わる人たちから可愛がられるような思いやりや温かさに通じるものであるように努力すべきなのだとも思います。私は趣味やお金のかかることを横に置けば、人にとって等しい自由とは、なりたい自分になるのに踏み出す自由だと思っています。面倒くさいとか時間がかかるとか、目先の損が躊躇の元になるとしたらもったいない! これからの世界は、今まで以上にAIやロボットとの協働が進み、私たちの働き方も変わっていくのでしょうが、そうやって創出される時間こそ、人間らしく土や汗のにおいのする、温かくて手間ひまのかかることに丁寧に投じて行こうと思いますし、そんな人の集まりになりたいと思います。ちなみに、この文章の一切にAIは関わっていないので、間違いも読みにくさもある、不完全な私のものとしてご了承ください。
プラスデコ代表 原田 学